わたしらしく輝く
あの人が残してくれたもの
Special マインド ライフスタイル
[ 22.05.11 ]
昭和に育ち、男女の雇用機会均等の号砲で平成を走ってきた。そして50歳。過去も未来も見渡せる年頃を迎えたあなたや私をAging Gracefully(AG)世代と名付けました。年を重ねてもっと自由に。
AG世代をフィーチャーした、朝日新聞の2020年10月の特集記事を紹介します。
人間は生まれてきた以上、必ず死んでいく――。そんな自然の摂理を、老いた親をみとる場面で実感する人も多いかもしれません。終末期とは。「生きる」とは、命とは何なのか。人生100年時代の今、大切な人との別れを通じて貴重なメッセージを受け継いだ女性2人に聴きました。
母の死のもやもや、7年越しの答えとは
ノンフィクション作家・佐々涼子さん
「母さんが死んでしまったよ」
佐々涼子さん(52)は2014年夏の早朝、近くの実家に住む父の電話を受けました。その8年前に神経難病と診断され、全身の筋肉が次第に衰え、最後はまぶたしか動かせなかった母。明け方に息をしていないのに同居する父が気づき、佐々さんが駆けつけた家の中には母の気配がまだ漂っていたそうです。享年72。
「つっかけを履いて庭に出るように」、母はあの世への境界を越えた。佐々さんはそう感じました。
ただ、それは父の完璧な在宅介護があってこその最期でした。「朝は母の顔を蒸しタオルで丁寧にぬぐって化粧水で保湿し、毎日2時間の入浴時は全身を念入りにマッサージし、1日おきに下剤を飲ませて肛門(こうもん)に指を入れて便をかき出す。私には到底まねできないと思いました」
自分たちの世代は家族の終末期をどう支えたらいいのか。正解を求め、訪問医療を行う京都の診療所を拠点に2013年から取材を続けていた佐々さん。でも筆は進みません。かつては母の介助に苦闘していた父の姿も重なり、「『家が一番』と手放しで礼賛できなかった」と言います。
ノンフィクション作家の佐々涼子さん=西畑志朗撮影
母の在宅での死を消化しきれないまま、佐々さんは更年期の不調に悩み、癒やしを求めて海外の仏教施設などを渡り歩きました。帰国後も「死」を書く気になれなかった2018年9月、京都の診療所取材で親しくなった40代の男性看護師から「末期がんを宣告されたので、患者目線で在宅看護の教科書を作りたい。共同執筆者になって」と頼まれました。「200人以上をみとったプロの命がけの願いを断れませんでした」
しかしその後の男性は、終末期患者のケアに奔走していた現役時代とは別人のように見えました。代替医療に没入し、好きな場所へドライブしたり、好きなものを食べて雑談したり。黄疸(おうだん)が出て痩せてきたのに「がんの言い分を聞き、自分が変われば治るはず」と言い張ります。
男性が自宅ベッドから起きられなくなった2019年4月、佐々さんは「在宅医療の話をまだ聞けていない」と焦りました。すると「全部見せて、伝えてきたじゃない」と笑って返されました。「ハッとしました。常々、職業の枠を超えた人間としてのケアを目指していた彼は、それを実践していたんです」。好きなように今を生きていい、いつか死ぬんだから。正解を追うことから自由になった時、母の死もつづることができ、7年越しの著書「エンド・オブ・ライフ」(2020年2月刊行)を書けたそうです。
「亡くなる人が残してくれた『贈り物』だと思っています」
不仲だった母見送り、いま親孝行中
タレント・青木さやかさん
タレントの青木さやかさん(47)は2019年夏から約4カ月、故郷の愛知県にあるホスピスへ毎週のように通いました。目的は、がん末期を迎えた母との和解です。「東京から1人で運転して行くんですが、浜松を過ぎる辺りでいつも憂鬱(ゆううつ)な気分になって……(苦笑)。だけど最後のチャンスと思って頑張りました」
母が嫌いになったのは、教員だった両親が離婚した高校時代。母は周りから尊敬されていましたが、「娘の私は幼いころから褒められた記憶がなく、指導や注意を受けてばかりでした」。世間体を気にして、ひとり親家庭を良く言わなかった母自身が、シングルマザーの道へ。思春期の青木さんは失望し、反発しました。
青木さやかさん=高橋美佐子撮影
芸能界を目指した理由の一つも「母のような公務員とは正反対の世界で成功したかった」。しかしテレビで広く人気を得ても評価してもらえず、不仲なままでした。結婚し、2010年に産んだ一人娘を抱かれた時には「私の大事なものに触らないで!」と、母への激しい憎悪が湧き出すほど。そして離婚。青木さんは娘を連れて定期的に帰省したものの、母を憎み、時にいらだつ自分を抑えられませんでした。
そんな気持ちが変わったのが、悪性リンパ腫と数年間闘った母の旅立ちが近づいた時期。尊敬する知人に「親と仲直りを。自分が楽になれるよ」と言われ、不思議と勇気が湧いたといいます。まず「あなたにとって良い娘じゃなくてごめん」と謝り、自分を奮い立たせて面会を重ねました。やがて、その手に触れられるほど距離が縮まり、穏やかな親子の時が流れていたそうです。
約30年間に及ぶ「わだかまり」が解けた母の他界から、ちょうど1年。青木さんは今「死んでもできる親孝行」に挑戦しています。「自分を大切に楽しく生きる。これこそ親が一番喜ぶことだと、母との最後の時間で学びました」
心残り、多くが経験
身近な人を見送った際、私たちは何を思うのか。厚生労働省が2018年に発表した調査結果によると、過去5年間に大切な人を亡くした人の4割以上が「心残りがある」と答えています。心残りなく見送る条件としては「苦痛がもっと緩和されていたら」(39.8%)、「あらかじめ人生の最終段階について話し合えていたら」(37.3%)、「望んだ場所で最期を迎えていたら」(25.3%)などが上位を占めました。
最期を迎える場所がない「みとり難民」は10年後には47万人とも推計されるなか、在宅での死を支える人材養成が全国で始まっています。「看取(みと)り士」の資格認定を行う2012年設立の「日本看取り士会」(本部・岡山市)、2015年から始まって現在1100人を超えた「認定エンドオブライフ・ケア援助士」を育てる「エンドオブライフ・ケア協会」などがあります。
「大切な人の死に対する心残りの有無/どうしていたら心残りがなかったか」
朝日新聞2020年10月25日掲載
記事・写真=高橋美佐子、写真=西畑志朗、デザイン=高山裕也