わたしらしく輝く 色とりどりの社会へ
<プロローグ>50代、何が見えますか
Special ジェンダー ライフスタイル キャリア 子育て
[ 21.10.04 ]
昭和に育ち、男女雇用機会均等法の号砲で平成を走り抜けた、40代、50代のAging Gracefully (AG) 世代。一人ひとりの色とりどりの人生が、社会を少しずつ前へ前へと進めていきました。
AG世代をフィーチャーした、朝日新聞の2019年9月の特集記事を紹介します。ビジネス、テレビ、文芸の世界で活躍する、3人のAG世代へのインタビューです。(年齢、肩書はいずれも掲載当時)
帳尻合ってきたかな
キリンエコー社長・丸山千種さん
まるやま・ちぐさ
1963年、静岡県生まれ。86年にキリンビールに総合職で入社。工場見学を運営する子会社の社長などを経て、2016年から現職。
《女性では初の営業総合職として、新卒でキリンビールに入社。社宅を使えたのが決断の理由だった》
親の援助なしで衣食住をまかなえるようになりたくて、迷いはありませんでした。駆け出しは、街の酒屋さんへの営業。女性は相手にされず、「担当を変えろ」と言われたり、大事な話は上司に直接電話で伝えられたり。1~2年は居場所がないと感じていました。
でも、コツコツ続けるうちに私の提案を聞いてくれる店主が増え、販売目標数に届くようになった。セールスコンテストで100人くらいの中から表彰された時は、仕事を面白いと感じました。
《20代で結婚。子どもも、と思っていたが、洋酒の免税担当になり全国を営業で飛び回っていた36歳のとき、夫が亡くなった》
休日は何もする気が起きず、ほとんど眠れない日が2年くらい続きました。それでも、いつも通り出勤しました。仕事という支えがなかったら崩れてしまいそうでした。人として生きていく上で、仕事があって本当によかった。
子どもを産まなかったことは、少し心残りがあります。でも仕方ないかな。その分、得たこともあるし、どこかで帳尻が合っていくんだと思います。
《43歳で奈良支社長に。支社長も女性初だった》
地元のニュースになったり、街の人から声をかけられたり、顔を知ってもらった。社員39人の今の会社も1941年の創業以来、女性社長は初めて。「女性初」で得もしてきたと思います。
若い頃は支店長にあこがれ、偉くなれば自分の思い通りにできると思っていた。でも実際は違いました。部下の働きやすい環境を整えないといけない。それに会社員って、どこまで行ってもさらに上のポジションがある。キリンビールの社長もその上にホールディングスの社長がいるように。だけどやっぱり、仕事はなるべく続けたいですね。
いまもずっと「途中」
脚本家・北川悦吏子さん
きたがわ・えりこ
1961年、岐阜県生まれ。92年に連ドラデビュー、「ロングバケーション」などヒット多数。NHK連続テレビ小説「半分、青い。」も人気に。娘が1人。
《大学を卒業して、にっかつ撮影所に入社。同期の中で女性は一人だった》
自由な会社でした。感謝しています。女性ならではのお茶くみやちょっとしたセクハラはあったけど、そんなことに心を砕いているのは時間の無駄と自分を奮い立たせ、必死で企画書を書きました。
当時ドラマは若い女性のもので、同世代の女性脚本家が一斉に生まれた。私も「素顔のままで」で、月9で連ドラデビュー。1990年代、テレビはまだ憧れの世界を描くもので、勢いがあり、未知の新しい才能を常に求めていました。
《仕事が忙しくなり、結婚して娘も生まれた。そんなさなかの30代後半に、難病「潰瘍(かいよう)性大腸炎」を発病。2012年には左耳を失聴する》
あのまま順風満帆だったら、世の中の「普通」にのみ込まれていたかもしれない。でも自分がままならない状況に突き落とされ、そこでどう生きていくかをおのずと考えるようになりました。朝ドラも、入院しながら書いた回があった。イレギュラーなことだったかもしれないけど、熱意を持ってちゃんと書いたらプロフェッショナルな関係が成立した。
今を生きていれば誰もが病や介護、将来の不安、何らかの負荷を抱えている。「これができない、あれがない」と憂えるばかりでなく、自分なりのやり方を見つけ、日々を手なずけ、前に進もうと思います。
《いまも体の不安はあるが、書くことと向き合う》
「半分、青い。」を書き終えれば気が済むだろうと思ったら、まだまだ書きたいものがたくさん。これはずっと途中なんだ、私はあがき続けるんだ、と気づきました。
でも前ばかり見ないで、たまには後ろを振り返ったり。そんなに自分に厳しくしなくていい。ここまで生きてきたってことは、それだけ頑張ったということ。過去も未来も、同等に存在している。いまそんな風に思っています。
「好きな自分」一歩め
作家・柚月裕子さん
ゆづき・ゆうこ
1968年、岩手県生まれ。2009年、「臨床真理」でデビュー。13年に「検事の本懐」で大藪春彦賞。警察や暴力団などを扱った骨太な作風が持ち味。山形市在住。
《子どものころ、父の転勤で何度も転校した》
ネットがなかったので前の学校の友人と連絡を取るため、一生懸命手紙を書きました。母に読んでもらうと、「上手ね」とか必ずほめてくれたんです。母の存在、一言はとても大きかった。
21歳で結婚しました。子どもにも恵まれ、「穏やかな家庭を築ければいいな」と、多くの人が抱く結婚スタイルが漠然と頭にありました。
《上の娘が中学に上がったころ、新聞で知った小説家養成講座に通い始める》
著名な作家や編集者が来て運が良ければ原稿を読んでもらえるというので、「あ、行きたい」って。人生って誰かの娘、誰かの妻、誰かの親と、いろんな肩書を最優先しないといけない時期があって私もそうでした。今思うとこれが自分から外に踏み出した最初の一歩だったんじゃないかな。
でも、ずっと親元にいたり専業主婦だったりで、怖かったし自信もなかった。それが、リップサービスだと思うんですが、講座で志水辰夫さんが「この人、頑張ればいい所まで行けるんじゃない?」と言ってくださった。母の記憶以来、というぐらいうれしくて。単純なので、ほめてもらうと、どんどんその気になって。
《初めて投稿した長編「臨床真理」がデビュー作に。小説家・柚月裕子として今に至る》
30~40代は「老いってどうなるの?」と未知のものに不安を抱きます。でも50歳を過ぎると、体がわかってくる。自分が過ごした人生、これから残されている時間が漠然と見えてきます。そして自分自身を意識せざるを得なくなる。
何かをおいしく食べる自分、何かを作る自分、何かつらいことを頑張ってる自分。「あ、自分って好きだな」って思えることを見つけること。それが人生が豊かになる第一歩かなと思います。
朝日新聞2019年9月22日掲載
記事=勝田敏彦、藤田さつき、村井七緒子 写真=勝田敏彦、西田裕樹 デザイン=高山裕也
40代、50代の女性が歩んできた時代と、多様化したライフコース
AG世代が大人として迎えた平成の30年間は、バブル絶頂期から、「失われた20年」へと社会情勢が大きく変化し、女性の生き方も多様化しました。
結婚する、しない。子どもを持つ、持たない。働き方も、正社員からフリーランス、パートと様々。
三菱総合研究所の調べでは、AG世代のライフコースには3割を越す「多数派」がいないのが特徴です。最も多い「専業主婦、子どもあり」も23.8%にとどまっています。
40〜50代女性
多様になったライフコース
出典:2019年、(株)三菱総合研究所・生活者市場予測システム(mif)